週末にあせって書くのは止めにしよう

①意味不明の流行を流行らすマスコミには困ったものだけど、流行ってもいない事を流行っているかのように報道するマスコミにも困ったものです。その手口はlivedoorと一緒ではないだろうか。お前ら全員ホリエモンか!?


亀田興毅は試合後、ダウンした件について「俺流のサプライズ」とか何とか言っていたけど、それなら2Rに相手をKOして欲しかった。1Rは「亀田興毅は強い」と信じていた人達に対するサプライズ。2Rは「亀田興毅は実は弱い」と信じていた人達へのサプライズ。現段階では少なくとも本当のボクシングファンは驚いていない筈だ。


安倍晋三が最近、靖国神社に行っていたとかマスコミが騒いでいたけれども、小泉にしても安倍にしても他の政治家にしても、そんなに靖国神社が好きならあそこで働けば良いのに…。親のコネも強力な後ろ盾も十分すぎる資金もあるんだから、それくらい出来るだろうに。国益にもつながるよ〜。


④それにしても暑い…(笑


⑤知人が「教育には体罰が必要だ」と言っていたので考えてしまった。まず、躾と教育は違うと思う。確かに躾には体罰が必要な時もあるかもしれない(まぁ、それも最後の手段として。そういう意味では否定しておいた方が良いのかもしれない。肯定してしまったら使いたくなってしまうのが心理だから。でも現状を考えると…)。しかし、教育は別だと思う。そもそも教育とは何なのか?詰め込み教育は必要だと思うけれども(「詰め込み教育の弊害」とかマスコミが騒ぐほどの事ではないと思う)、それは教育ではないと思う。よくテレビや何かの企画で、若い人に一般教養問題を出して「今時の若者はこんな事も知りません!」とかやっているけれども、大事なのは知っているかどうかよりも、当人が知らない事を知った時に、「さすがにこんな事も知らないのはまずいよなぁ」と思って知る努力をするかどうかだと思う。100人の子どもにシェークスピアを知っているか質問して90人知っていたけれども、10人の知らなかった子どもが「興味ないから、どうでも良い」って答える状況よりも、100人中10人しか知らなかったけれども、知らなかった90人の子どもがそれを機に(大人になってからでも良いけど)シェークスピアについて学び始めたっていう状況の方が遥かに良いと思う。教育ってのはそういう始めは興味の無かった事に対して自ら学ぶ姿勢を持つ人間を育てるって事なんじゃないだろうか。昔、巨人にいた江川の手抜き投球に関して、野村克也は「自分がバッテリーを組んでいたら殴る」と著書に書いていた。理由は、「彼は親から殴られて教育されてきているから、殴られないと分からないから」だそうだ。躾を受けたことの無いバカが増えるのも問題だけれども、江川みたいな人間に増えられても周りは大変である。いちいち「お前はチャップリンも知らんのかー!」って殴っていたら周りの人の身が持たない(笑
もう一つの問題は、本当に議論すべきテーマは「体罰」ではなくて「罰」だという事である。要するにペナルティーという装置を使ってモチベーションを上げるという方法が有効なのか、効率的なのか、合理的なのかという事である。それは勿論、長期的に見て。死ぬまで暴力教師が付き添ってくれる訳ではないのだから。でも、個人的に教育についてやたらと熱く語りたがる人間は信用しない事にしているので、(そんな人間にはなりたくないので)もうこれ以上は言わない(笑


⑥A「もし戦争になったら、愛する人を守るために戦地に赴く」。B「自分は愛する人の傍にいてあげたい」。自分はそれを聞いて、「そんなに愛する人を守りたいんなら、選挙に行って自民党を政権の座から引き摺り下ろせば良いのに…」と思った。別に他の政党なら戦争に巻き込まれる心配が無いとは思わないけれども(民主党自民党と何が違うんだかイマイチよく分からないし、社民党は村山内閣の時に自民党と変わらない事してたし、共産党は何だか訳が分からないし、公明党はただの宗教団体だし、新党大地は意味不明で論外だし)、幕末のたいした新政権プランも立てられなかった新政府が幕府を倒した時のように、変わる事に意味があると思うし、とりあえず今のままなら間違いなく「戦争できる国」になるのだから。勿論、政府としてはあくまで外交のバックとして協力な軍事力を持ちたいって事なんだろうけど、税金で買ってもらった玩具をいつまでも使わずにいられるだろうか…。周りの人のほぼ100%は総理大臣や政権政党について「誰がやっても同じ」って言っていて、確かにそうかもしれないし、自分も「そうかもしれないなぁ」って思うけれども、その考えは何だか「男はやらせてくれる女なら誰でも良いんだよ」って考えと同じような気がする(知人のお姉さんは「男なんて脱いだら皆一緒って言っていました(笑)。確かにそうかもしれないし、自分も「そうかもしれないなぁ」って思うけれども(笑、両方ともやっぱり「それを言っちゃあ、オシメェよ!」だと思う。そもそも何でこんなに物分りの良い寛容な人が増えたのかなぁと思っていたところ、スタジオジブリの鈴木プロデューサーがホームページでこんな事を言っていた。


憲法改正増税についても賛成が増えている状況も疑問です。僕はそれを見て、皆、庶民でなくなってきているなと感じます。この国を何とかするためにそれをやるという発想は、庶民じゃなくて為政者でしょう。国がやることにたて突くのが庶民じゃなかったんですか。増税して改憲して、それが何につながるか。『欲しがりません勝つまでは』ですよ」「皆がそんなに立派にならなきゃいけないんでしょうかということです」


その通りだと思う。自分もブログで何だか偉そうな事を書いているので言えた義理ではないけれども、「一億総評論家」という状況はヤバイと思う。国民には国民の役割ってのがあるんであって、「消費税を上げられたら困る!」とか「戦争なんてしたくない!」っていうのは、怪我をした子どもが「痛い!」って叫ぶのと同じ事だと思う。もしも怪我をした子どもが「この怪我が人体に及ぼす影響」についてグダグダ語り始めたら、その子は精神科医に見てもらった方が良いだろう。学生運動が役割分担をせずに皆で同じ事をやって失敗したように、皆で評論家になっても道を誤るだけだと思う。国民にも理論武装は必要だけれども、それは日常を守るためであって、別に評論家になる為ではない。日常をそれなりに懸命に生きて、生活が苦しくなるような政策案を出す政治家にはNOと言うっていう、ただそれだけの事が大事なのではないだろうか。そもそも普段適当な奴に限って、規模のデカイ話になると急に優等生ぶるのが滑稽だ(決してA君の事では無いですよ)。まぁ、そんな訳で自分はこれからも、一国民、一庶民もしくは一愚民として生きたいと思うし、暫くは「アンチ自民党」でいたいと思う。愛する人のために(爆